世田谷に西夏文字!?
- soi55msg
- 5月3日
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更新日:5月6日
今日は世田谷にある築地本願寺和田堀墓所を訪れた。目的は、カルピス創業者三島海雲(1878-1974)の功績を称える仏塔の形をした顕彰碑。この顕彰碑の何がすごいかというと、パスパ文字やウイグル文字、西夏文字といった、内陸アジアの失われた諸民族の文字が刻まれているのだ。
側に立つ「顕彰碑由来」という石碑には、次のように記されている。
カルピスの発明者三島海雲翁を社長に戴くカルピス食品工業株式会社の役員及従業員一同は 翁の人格と徳望とを深く敬慕しその偉業を永遠に顕彰するため 此の地を卜してこの碑を建立した
上段の塔は百済様式に倣い 基壇は翁がカルピス発想の地蒙古に通ずる居庸関の名跡に則った
基壇洞門の内壁の刻文は居庸関過街塔の如来心陀羅尼の一句を梵語西蔵・蒙古・ウイグル・西夏・漢字の六体そのまゝの書体で写し これに和・英ニ体を加えて八体の文字であらわしたものである
三島海雲は二十代半ばから約十年を清末のモンゴルで過ごし、辛亥革命の混乱の中、帰国。モンゴルで出会った馬乳酒にインスピレーションを受けて、カルピスを開発した。
このように、三島海雲はモンゴルと関係が深いのだが、顕彰碑の基壇は、北京からモンゴルへ向かう方向に位置する居庸関の仏塔の基壇を模して作られていて、トンネルの内壁には、8種の文字で陀羅尼の一部が刻まれている。(下段右、上から順に梵字、チベット文字、アルファベット、日本語、下段中央、左から順にパスパ文字、ウイグル文字、下段右、左から順に西夏文字、漢字)
北京居庸関の仏塔とは、元末に皇帝の命で建てられたもので、台座がトンネル状になっている。そして、トンネルの内壁には、6種の文字(梵字、チベット文字、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字、漢字)で陀羅尼が刻まれている。現在は基壇のみを残す。
出典:国立情報学研究所 - ディジタル・シルクロード・プロジェクト(外部リンク)
西夏といえば、井上靖の『敦煌』に登場するエキゾチックで謎なシルクロードの王国というイメージが思い浮かぶ。
西夏は都を現在の銀川に置き、北はモンゴル高原、東は中原、南はチベット高原、西はタリム盆地の西域に通じる「河西回廊」と呼ばれる民族の十字路を統治していた。
民族は、古代羌族のタングートと呼ばれる集団で、チベット=ビルマ語族系の言語を話していたらしい。
文化は、中華とチベットの双方から影響を受けていた。
国のシステムは、主に中華王朝の官位システムに倣っていたが、「帝師」という、皇帝に「灌頂」をはじめとする密教儀礼を施す金剛上師の地位が、律令の中で規定されていた。
多くの中世的な王権と同様に、仏教国では、宗教の指導者がダルマラージャ(転輪聖王)と呼ばれる世俗の権力者と並んで国を統治する国家観がある(例えば、スコータイ王朝や現代のブータンなど)。
西夏は、法典の中で、転輪聖王と宗教指導者の関係を具体的に規定していたところが、すごい点で、西夏がモンゴルによって滅ぼされた後も、このシステムは元朝に継承された。
モンゴル帝国第二代オゴダイ=ハーンの治世に、同ハーンの次男のコデンが藩王として西夏の故地に置かれ、コデンはチベットに侵攻し、仏教寺院を破壊しまくっていたが、チベット仏教サキャ派の教主サキャ・パンディタと会見後、チベット仏教に帰依し、仏教を保護した。後世の記録によると、西夏の第六代皇帝の没年とコデンの生年が近かったからか、西夏皇帝がモンゴル王侯のコデンに生まれ変わったという風説もあったようだ。
コデンの次は、フビライ=ハーンが、西夏故地の藩王となり、同ハーンもまた、サキャ派の教主に帰依した。フビライ=ハーンもまた、サキャ・パンディタの後継で甥のパクパを師と崇め、元朝を興した後、同師に「帝師」の称号を与えた。パクパは、チベット文字を改造して元の国字である「パスパ文字」を作った人物としても知られている。
西夏は、神秘のベールに包まれたシルクロードの王国というイメージで消費するには、勿体ないほどの歴史的な意義をもつ。見方によっては、元朝やその後の中華王朝に繋がる原型の一つに位置付けられるのかもしれない。
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